2008年5月14日水曜日

りんちゃん3

そんな、家に育ったりんちゃんですが、尋常高等小学校までしか出ていません。
当時中学へ行くのは、沼隈のようなド田舎では庄屋さんかよっぽど分限者しか行かなかったようですが、なんの間違いかりんちゃんも薦められて、中学を受けたらしいのですが、勉強なんぞしたことがなかったものだからすっぱりと拒否られてしまった。
なんといっても、目の前は海で後ろは山で、子供にとって遊ぶ環境は抜群だし、家族が多いので百姓の手伝いも殆どせず、牛の面倒を見るといっては海で泳ぎ、ため池の脇の木に牛を繋ぐと近所の悪がきといっしょに遊びほうけていたんだって。
学校へ行っても、姉二人が結核(?)だったせいで、体育の時間は木陰で昼寝を決め込んでいた。
先生も面倒くさいのか、「おう、やすんどれ」と相手にしていなかったようですね。
ただ、算数だけは先生も舌を巻くほど出来たらしい。
公式と習わないのに、直感で答えがわかるみたいで・・・テストをすると式が書いてないので、減点されるわ、答えだけ書いているので、カンニングしたと思われたりしたらしい。
りんちゃんは「なんで、みんなわからんのかのう」と不思議だったんだよね。
でも、得意なのは算数だけで他は殆どやる気が無く、字はひどいものだったらしい。
なおちゃんの証言:
「字が汚いくせに、ぐちゃぐちゃと早く書くのでよけえわからんよね。自分でも解らんのじゃけえ、しょうがないよ。」
この才能は畳屋になっても発揮され、畳ってオーダーメイドだし、大工さんは畳屋のことなんか考えないで家を作るので、6畳といっても1枚1枚の大きさを微妙に調節してぴったり敷くんだよね、この寸法って対角線を測って決めるらしいのだが、市内の畳屋さんで難しい部屋があると、普段は馬鹿にしている人でもりんちゃんに聞きに来たらしい。
そうすると苦も無く、1まいづつの寸法をたちどころに示すことができたと、なおちゃんもこの点は一目置いていた。
歴史に詳しくなったのは、興味が出てきた中年以降だよね。
高等小学校をでて、ぶらぶらしていると、誰がすすめたのか知らないが、満州で小僧を探しているというので、ひょいと満州まで出かけ行った。
その勤め先が畳屋だったらしいが、そこでも修行をするでもなく、なんとなく日を送り、使い走りなんぞをやっては小遣いをもらってた。
そこで知り合った職人さんに広島へ出てからなにかと、付き合いがあるようになったタガヤさんなんだよね。
満州でふらふらしていると、召集が来た。いったん沼隈まで帰り、軍に入って行った先がまた満州なんだ、満州に縁があったのかな。リタイヤしてからも、中国へ一度行きたい、行きたいってよく言ってたけど、これはかなわなかったね。娘としてはちょっと残念。
もう少し長生きしてくれたら連れていけたのにね。

つづく。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

そうよね、中国に行ってみたかったみたいよね。
戦争はやはり嫌だったのよ。だから戦歌はぜったに歌わなかったもの。
学校で父母に戦争の話を聞いて来なさいと言われたときに、じいいちゃんったらさあ、穴掘った話とか、ちょっとしゃべれたから先輩のかんぱんと中国人の持っているタバコと交換して怒られたとか、そんなこんなで連帯も一癖ありそうな人ばかりのとこに入れられて、結構のんびり他の部署からは叱られることもなくて過ごしたと言っていた。(じいちゃんらしいよね)
でも、そんなことばかりで書くことに困ったけど、聞いたことを素直に書いたけど、先生からのコメントはなかったです・・・・さすがにね(中谷先生だもんね)